初版発行日 2002年9月5日
発行出版社 祥伝社
スタイル 長編
十津川警部のほろ苦くて美しい初恋の記憶。飛騨高山、由布院、湘南を舞台に繰り広げられる傑作長編ミステリー。
あらすじ
湘南の夏、大学ヨット部合宿所の一人娘夕子に捧げた慕情。それが十津川警部の初恋だったー。二十数年後、夕子は娘由紀とともに飛騨高山で旅館の美人母娘女将として活躍していた。事件の発端は、夕子の遺言ー遺産贈与話を十津川にもたらした偽弁護士崎田が、絞殺されたことだった。夕子母娘に何が起こったのか?真実を求めて高山へ飛んだ十津川の眼前で。凶行が連続した。やがて深まる夕子への疑惑。苦悩する十津川の推理とその真相とは?
小説の目次
- 思い出の淵から
- 二十年
- ある画家の死
- 噂と中傷
- 愛と苦悩
- 終章への歩み
- 愛の遺書
小説に登場した舞台
- 高山駅(岐阜県高山市)
- 国分寺通り(岐阜県高山市)
- 宮川にかかる鍛冶橋(岐阜県高山市)
- 由布岳(大分県由布市)
- 由布院(大分県由布市)
- 内牧温泉(熊本県阿蘇市)
- 七里ヶ浜(神奈川県鎌倉市)
登場人物
警視庁捜査一課
- 十津川省三:
警視庁捜査一課の警部。主人公。 - 亀井定雄:
警視庁捜査一課の刑事。十津川警部の相棒。 - 日下淳一:
警視庁捜査一課の刑事。十津川警部の部下。 - 西本明:
警視庁捜査一課の刑事。十津川警部の部下。 - 北条早苗:
警視庁捜査一課の刑事。十津川警部の部下。 - 三田村功:
警視庁捜査一課の刑事。十津川警部の部下。 - 田中大輔:
警視庁捜査一課の刑事。十津川警部の部下。 - 三上刑事部長:
刑事部長。十津川警部の上司。
その他の警察関係者
- 吉田:
大分県警の刑事。 - 寺西:
大分県警の刑事。 - 三浦:
岐阜県警の警部 - 野川:
神奈川県警捜査一課の警部。
事件関係者
- 原口夕子:
高山市で老舗の原口旅館を経営している女将。十津川警部の初恋相手。 - 原口由紀:
原口夕子の娘。夕子とともに原口旅館の女将をしていたが、心筋梗塞で急死する。 - 崎田守:
警視庁に十津川を訪ねてきた男。弁護士と名乗る。 - 三枝康之:
原口夕子の親戚で岐阜県議。経営コンサルタント。 - 小坂井茂:
高山に住む日本画家。 - 三田:
高山で病院を経営する名士。 - 三田省吾:
三田の息子。副院長。 - 松田:
高山駅前で和菓子店を営む。三枝康之の友人。 - 小原良治:
インテリアデザイナー。半年前、交通事故に遭って三田病院に入院している。
その他の登場人物
- 江口さと子:
原口旅館の仲居。 - 井之口信也:
T出版社・編集部長。 - 伊藤はるみ:
原口由紀の短大時代の同級生。 - 山下ジュン:
原口由紀の短大時代の同級生。 - 三田節子:
三田の妻。 - 山田:
阿蘇タクシー内牧営業所のタクシー運転手。 - 小坂井勇:
37歳。小坂井茂の弟。名古屋の製薬会社で働くサラリーマン。 - 神埼:
三田病院の外科医。 - 小原亜希子:
小原良治の姉。
個人的メモ
- 高山、由布院。景勝地の情景が描かれる。
- 初恋相手をまえにして十津川警部はいつになく揺れ動く。その想いを繊細に描いている。
- 自分の思い出を美しいままにしておきたい男しての十津川と、目の前にある事件を解決しなければならない刑事としての十津川の葛藤。
総評
十津川警部も刑事である前に、ひとりの男だった。そんな当たり前のことを再認識した作品だったと思う。
十津川警部の真骨頂はロジカルな推理、すべてをゼロベースで捉える冷静さ、容赦なく切り込む鋭さである。しかし、本作では、それが鈍る。十津川警部が、すこぶる鈍いのである。
その理由はなにか?それは容疑者が初恋相手だからである。
十津川は、原口夕子と二十年ぶりに対面する。夕子を見て、相変わらず美しいと感じてしまう。二十年前のほろ苦い記憶が脳裏によみがえる。十津川はそのときの気持ちをこう言い表している。
「男は初恋の相手に、いつも、幻影を抱きたがる。二十数年もの時間を飛び越して、昔のままでいるような錯覚を持ってしまうのだ。」
これは男にとっての真理である。男は初恋の相手を生涯忘れることはない。その記憶をいつまでも美しいものにしておく。十津川も例外ではないのだ。
しかし、十津川は刑事である。いま、殺人事件を捜査している。その重要参考人として初恋の相手と対峙しているのだ。ひとりの男としての十津川と、警部としての十津川。その間で揺れ動く自分の気持ちをこう表現している。
「今更、初恋の夕子と、関係を持ちたいという気はない。だが、何処かで、彼女が、いつも、清純な感じの女でいて欲しいのだ。これは、明らかに、男のエゴだとわかっているのだが。
刑事に徹することが出来るかどうかということなのだ。刑事に徹して、原口夕子と向かい合えるかどうか。簡単なことなのに、十津川には、自信が持てないのである。」
筆者は「何処かで、彼女が、いつも、清純な感じの女でいて欲しいのだ。」の部分に大いに共感した。初恋の美しくみずみずしい記憶をいつまでもそのままにしたい。当然ながら、美しい記憶の中の初恋相手も美しくみずみずしいままでいてほしいのだ。
原口夕子と話を重ねるうち、十津川は二十年前の自分の思いでとのズレを認識しはじめる。
「今、自分の眼の前にいる夕子と、二十数年前、十津川の胸をときめかせた夕子とが、うまく重なってくれないのだ。もちろん、同じ人間なのだから、顔立ちが変わってしまっているわけではない。ただ、その中身が、わらかないのだ。変わらないのか、それとも、全く変わってしまっているのか。」
これは筆者も経験したことがある感覚だ。
同窓会でひさしぶりに初恋相手と再会する。自分のあたまの中では、自分は当時のままで、相手も当時のままで、ふたりの関係も当時のまま。
当然、自分は当時のままの感覚で初恋相手と接する。しかし、どうにも噛み合わない。話していて違和感がある。あの頃のぴったりとした感覚にならないのだ。
噛み合わない理由は、”時”である。お互い時を重ね、いろいろなことを経験した。お互いにあの頃と変わってしまっている。あの頃と変わった自分と、あの頃と変わった相手。だからあの頃のように噛み合わない。
まるで蜃気楼をつかむような感覚になる。手応えがまったくないのだ。
十津川の気持ちがゆらゆらと揺れ動く。
「常に、甘い追憶が、つきまとっている。追憶は大事にしたいと思う。それは一つしかないものだからだ。だから、夕子を、信じたい。彼女は、殺人なんかに関係はしていないと思いたい。」
揺れ動く気持ちが捜査をにぶらせる。
葛藤に葛藤をかさね、やっとのことで十津川は想いを断ち切る。ここからやっと”十津川警部”になる。
十津川警部は推理をかさね、事件を解決する。そして迎えたラストシーン。ほどよい余韻が残り、美しい終わり方だったと思う。最後に選んだ場所もこの作品にふさわしいものだった。
ぜひあなたにも読んでもらいたい。
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